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2010.12.12

世に云われる所の成功の正体

人間というのは自身が思っているよりもずっと動物に近い。
頭脳を発達させて環境を変えてきてはいるものの、つまるところは集団で暮らす猿と変わりはない。
集団で暮らす猿にとって一番の生き残る可能性の高い生き方とは何か?それは他の猿に影響力を持ち、集団の中で重要な存在となることだ。それは何百万年経ったというのに、今の人間にとっても変わらないわけだ。
大金持ちになり、高い地位を得て、スーパースターやカリスマになる。
集団で暮らす猿にとって本能が求めるものであるから、誰も疑問を抱かないわけだ。
まあ、つまるところ、人間社会で求められるものというのは野生動物の頃から変わっていないということだ。何が万物の霊長なんだか。ただの自己保身である。
ところが自然界には、イレギュラー、多様性、新たな可能性というものがある訳だ。
それは保守的な一般性のあるところとは別の所にある。
猿の集団の中にはなく、そこからつま弾かれたはぐれた物の中にあるのであるな。
はぐれて一匹で暮らす猿にとっては、同類の存在は生存の障害となる。
つま弾かれているので、集団に近づくことは危険だ。
そのような猿にとっては群れている猿にとっての成功は意味を成さない。
強い影響力を求めたり、高い地位に着くというのは、群れの中の猿にとってしか意味がない。
存在を隠し、知恵も力も自身の生存のために使う。他者に利用される事は自身の生存を脅かす。
集団で暮らす猿にとっては理解できない規範で生きるのがはぐれ猿だ。
昨今、人口が増えて、多くのはぐれ猿が、群れから離れる事を許されずに暮らす事を余儀なくされている。猿が仲間からはぐれるのは別に遺伝には関係ないので、親にとっては泣き崩れるばかりであろう。誰に似たのだろう?別に誰かに似たからはぐれた訳ではない。
人口が増えた結果、比例してはぐれた猿の数も増えただけの事だ。
で、はぐれた猿にとってもっとも危険なのは、集団の中で暮らす事である。
集団の猿にとってはぐれた猿というのは他者であるために、スケープゴートにされやすい。
いわれのない迫害を受けても、群れから離れて暮らす事が物理的に許されない。
はぐれ猿というのは、間引きされたものと同義であるので、権利を集団から与えられないのである。
よく考えれば人口が増えたんだから、その分多く間引きされる者が出るのは、本能的に仕方ない。
これらの問題が解決されるには、人間が本能の要求から解放される必要があり、どれほど理性が発達しても、ものを食べて子供を生み死に行く生物である以上、本質的な解決は望めない。
解決する方法はあるが、物理的に生存圏を増やす手段に消極的な指導者についていく以上、血なまぐさい手段しか残されないのである。桑原桑原。

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